肖像画:狩野光信『豊臣秀吉像』(パブリックドメイン)(ファイルのページ)豊臣秀吉の名言
豊臣秀吉|1537〜1598年|日本(尾張国=愛知県西部)|戦国大名・関白・太閤
尾張国の身分の低い家に生まれ、織田信長に仕えて木下藤吉郎・羽柴秀吉と名を変えながら出世した。本能寺の変の後、中国地方から急いで引き返して明智光秀を山崎の戦いで破り、信長の後継者となった。関白・太政大臣となって全国を統一し、太閤検地や刀狩で武士と農民の区別を固めた。晩年は朝鮮に出兵し、その最中に伏見城で亡くなった。
のせている言葉:5こ(伝承・出典未確認 4・実は言っていない 1)更新:2026-10-20
この人の名言の一覧(5こ)
- 露と落ち、露と消えにし我が身かな。浪速のことは夢…
- 亡き母の形見の髪を手にとって、包もうとしても包み…
- このたびは大ばくちを打つつもりだ。
- 一人でも取り残せば、五百人、三百人も失ったように…
- 鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス
それぞれの名言に、出典(どの本・手紙・演説か)と、確かさのしるし(出典あり伝承・出典未確認実は言っていない)をつけています。外国語の言葉は運営者が原文から訳しました。
露と落ち、露と消えにし我が身かな。浪速のことは夢のまた夢。
出典:秀吉の辞世として伝わる歌。松浦静山『甲子夜話』巻二十三などに載る(1598年)
出典について秀吉の辞世として広く知られ、日本語版Wikiquoteは江戸後期の随筆『甲子夜話』巻二十三を出典として、いくつかの異なる形を載せている。秀吉自筆とされる書も伝わるが、今回は公開された原本の画像や翻刻で確かめることができなかった。
意味と背景
露のように生まれ、露のように消えていくわが身よ。大坂(浪速)で過ごした栄華の日々も、夢の中で見た夢のようにはかない、という意味。百姓から天下人にまで上りつめた秀吉が、最期に人生のはかなさを詠んだ歌として語り継がれている。
座右の銘にするなら・面接での答え方
座右の銘より、人生観を語る話のたねに向く。「天下人の秀吉でさえ、最期は夢のまた夢と詠んだと伝わります。だからこそ今日一日を大事にしたい」と、前向きな結論につなげると暗くならない。
亡き母の形見の髪を手にとって、包もうとしても包みきれないほど涙があふれて悲しい。
出典:文禄3年(1594年)、母・大政所の三回忌に高野山を訪れた時の歌として『甲子夜話』に載る
出典について日本語版Wikiquoteが『甲子夜話』から引く歌。江戸後期の随筆で、秀吉の作と確かめることはできない。
意味と背景
天下人となった秀吉が、亡くなった母をしのんで詠んだと伝わる歌。母の形見の髪にふれると、涙が止まらないという素直な悲しみがあふれている。秀吉は母をとても大切にしたことで知られ、その人柄を伝える歌である。
座右の銘にするなら・面接での答え方
家族への思いを語る場面で使える。「天下人も母の形見を前に泣いたと伝わります。私も親孝行は先延ばしにしないと決め、毎月実家に顔を出しています」と、自分の行動につなげるとよい。
このたびは大ばくちを打つつもりだ。
出典:『川角太閤記』巻一(天正10年=1582年、本能寺の変の後、姫路城で)
出典について江戸時代初めにまとめられた秀吉の逸話集『川角太閤記』に、明智光秀との決戦(山崎の戦い)を前に、城の金銀や蔵米を家臣に配り尽くすよう命じたうえで言った言葉として載る。後世の逸話集で、本人の言葉と確かめることはできない。
意味と背景
籠城の備えは一切せず、城の金や米をすべて配って、光秀との一戦に全てを賭けると宣言した場面の言葉。家臣の堀秀政は「風も順風です、帆を上げましょう」と応じたと書かれている。退路を断って勝負に出る覚悟が表れている。
座右の銘にするなら・面接での答え方
「ここぞという時は、出し惜しみせず全力を賭けるタイプです」と話す時の話のたねになる。ただし「ばくち」という言葉は誤解されやすいので、準備をした上での勝負だったことを添えるとよい。
一人でも取り残せば、五百人、三百人も失ったように言いふらされるものだ。落ち着いて川を越えよ。
出典:『川角太閤記』巻一(備中高松から引き返す「中国大返し」の途中の川越え)(1582年)
出典について『川角太閤記』に秀吉の言葉として載る(続けて「心静に川越しせよ」と命じている)。後世の逸話集で、本人の言葉と確かめることはできない。
意味と背景
急いで軍を引き返す中でも、川を渡る時に兵を一人も失わないよう、落ち着いて渡らせたという話。一人の損失がうわさで大きく広まり、軍全体の士気に響くことを秀吉は知っていたと伝わる。急ぐ時ほど足元を固める大切さを教えてくれる。
座右の銘にするなら・面接での答え方
「納期に追われている時ほど、小さなミスが信用を大きく傷つけると考え、最後の確認だけは省かないようにしています」と、急ぐ場面での慎重さを語る時に使える。
鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス
出典:松浦静山『甲子夜話』巻53(江戸時代後期)
本当の出どころ秀吉の性格を表す句として知られるが、秀吉本人の句ではない。江戸時代後期の平戸藩主・松浦静山の随筆『甲子夜話』巻53に、三人の天下人の人柄を表す作者不詳の句として載せられたもので、原文は「鳴かずともなかして見せふ杜鵑」。今は「鳴かぬなら鳴かせてみせよう」の形で広まっている。
意味と背景
思いどおりにならない相手でも、知恵と工夫で動かしてみせるという、秀吉の機転と自信を表した句。農民の出から天下人にまでなった秀吉の、あきらめない工夫の力を後の人がこう言い表した。
この言葉の使い方
座右の銘にするなら、工夫で状況を変える姿勢として。面接では、うまくいかない相手や状況に対して、やり方を変えて協力を引き出した経験を話すとよい。秀吉本人の句ではなく、江戸時代の随筆に載った句だと添えると正確。
人物の説明の参考:https://ja.wikipedia.org/wiki/豊臣秀吉
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