肖像画:狩野探幽『徳川家康像』(パブリックドメイン)(ファイルのページ)徳川家康の名言
徳川家康|1543〜1616年|日本(三河国=愛知県東部)|戦国大名・江戸幕府初代将軍
三河国の小さな大名の家に生まれ、幼い頃は織田家・今川家の人質として過ごした。信長と同盟を結び、信長の死後は秀吉に従って関東を治めた。秀吉の死後、関ヶ原の戦いに勝って1603年に征夷大将軍となり、江戸幕府を開いた。大坂の陣で豊臣家を滅ぼし、約260年続く江戸時代の土台を築いた。言葉の多くは、江戸幕府が後にまとめた『東照宮御実紀附録』などに伝わる。
のせている言葉:15こ(伝承・出典未確認 10・実は言っていない 5)更新:2026-10-20
この人の名言の一覧(15こ)
- わたしには、水の中、火の中へでも命を惜しまず飛び…
- およそ侍たる者は、信と義の二つを忘れてはならない…
- 主君の大事には家来が救い、家来の危急には主君が助…
- 勝ち負けは天が決めること。とにもかくにも、戦わず…
- すべてのことは、時機を逃さないことが肝心だ。上に…
- ひざが隠れるほどの浅い川を歩いて渡るのに、着物の…
- 何事も、終わりと始めが食い違わないのがよい。道理…
- 鷹狩りは何よりの養生で、なまじっかな薬を飲むより…
- 困るほどにはしないが、勝手気ままもさせない。それ…
- (どちらへ向かうのかと聞かれて)敵の方へ。
- 人の一生は、重い荷を背負って遠い道を行くようなも…
- 堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え。
- 及ばざるは過ぎたるより勝れり。
- 人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐ…
- 鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス
それぞれの名言に、出典(どの本・手紙・演説か)と、確かさのしるし(出典あり伝承・出典未確認実は言っていない)をつけています。外国語の言葉は運営者が原文から訳しました。
わたしには、水の中、火の中へでも命を惜しまず飛び込んでくれる家来が五百騎ほどいる。これこそが、わたしにとって第一の宝だ。
出典:『東照宮御実紀附録』巻七(典拠として『寛元聞書』『武野燭談』を挙げる)。豊臣秀吉に宝を問われての答え
出典について江戸幕府の儒学者たちが天保14年(1843年)ごろにまとめた家康の言行録『東照宮御実紀附録』に、先行する聞き書きを典拠として載る(原文「水火の中に入りても命を惜まざるもの、五百騎ばかりも侍らむ、これをこそ家康が身に於て第一の宝とは存ずるなり」)。家康の死から200年以上後の編纂で、そのままの言葉とは確かめられない。
意味と背景
秀吉が自慢の名物や宝を並べて「あなたの宝は何か」と聞いた時、家康は「田舎育ちで珍しい道具はないが、命がけで尽くしてくれる家来こそ宝だ」と答えたと伝わる。物より人を大切にする家康の考えを示す有名な逸話である。
座右の銘にするなら・面接での答え方
「設備や資金より、一緒に働く仲間が一番の財産だと考えています」と、チームを大事にする姿勢を語る時に使える。管理職の面接なら、部下の成長を支えた具体例と組み合わせるとよい。
およそ侍たる者は、信と義の二つを忘れてはならない。
出典:『東照宮御実紀附録』巻二(一宮城の救援)
出典について『東照宮御実紀附録』に、敵の大軍に囲まれた城の家臣を救いに出る時の家康の言葉として載る。後世の編纂で、本人の言葉と確かめることはできない。
意味と背景
城を守らせた家臣が大軍に囲まれた時、周りは「敵が多すぎる」と止めたが、家康は「信義を忘れてはならない」と言って救いに向かったと伝わる。約束を守り、仲間を見捨てないことが武士の根本だという考えである。
座右の銘にするなら・面接での答え方
「一度引き受けた約束は、状況が苦しくなっても守ることを大事にしています」と、信頼を守った経験と合わせて話すとよい。営業職なら、納期を守るために踏ん張った話と結びつけられる。
主君の大事には家来が救い、家来の危急には主君が助ける。それが当たり前のことだ。
出典:『東照宮御実紀附録』巻二(一宮城の救援)
出典について同じ場面の家康の言葉として『東照宮御実紀附録』に載る。後世の編纂で、本人の言葉と確かめることはできない。
意味と背景
上の者が下の者に忠義を求めるだけでなく、上の者も下の者の危機には命がけで助けに行く。家康は、主従の関係はお互いさまだと考えていたと伝えられる。上司と部下、先輩と後輩の関係にもそのまま当てはまる言葉である。
座右の銘にするなら・面接での答え方
リーダー職の面接で「部下に頑張ってもらう以上、部下が困った時は自分が真っ先に助けに入るようにしています」と話し、トラブル時に自分が前に出た経験を添えると、信頼される上司像が伝わる。
勝ち負けは天が決めること。とにもかくにも、戦わずにすませるわけにはいかない。
出典:『東照宮御実紀附録』巻二(三方ヶ原の戦いの前)(1572年)
出典について武田信玄の大軍を前に、退却を勧める家臣たちに家康が言った言葉として『東照宮御実紀附録』に載る。後世の編纂で、本人の言葉と確かめることはできない。
意味と背景
三方ヶ原の戦いで、家康は信玄の大軍に挑み、大敗した。それでも、領地を素通りされて戦わなければ武士の面目が立たないと考えたと伝えられる。結果は負けでも、逃げずに挑んだことが家康の評価を高めたともいわれる。
座右の銘にするなら・面接での答え方
「結果を恐れて挑戦しないより、負けても挑むほうを選びます。家康も三方ヶ原では負けましたが、その経験を一生の戒めにしたそうです」と、失敗を糧にする姿勢を語ると深みが出る。
すべてのことは、時機を逃さないことが肝心だ。上に立つ者は、とくにこのことを忘れてはならない。
出典:『東照宮御実紀附録』巻二(「啐啄」の故事について)
出典について家臣の石川家成が僧から「啐啄(そったく)」の意味(ひなが殻を破るには時機があり、早すぎても遅すぎてもだめ)を聞いたと知った家康が言った言葉として『東照宮御実紀附録』に載る。後世の編纂で、本人の言葉と確かめることはできない。
意味と背景
卵の中のひなが殻をつつく時と、親鳥が外からつつく時がぴったり合って初めてひなは生まれる、という禅の「啐啄同時」の話を聞いて、家康は何事もタイミングが大事で、リーダーはとくにそれを心得よと言ったとされる。
座右の銘にするなら・面接での答え方
「後輩に教える時は、本人が悩んで聞きに来たタイミングを逃さず手を貸すようにしています」と、指導のタイミングの話にすると、啐啄の意味まで伝わる深い答えになる。
ひざが隠れるほどの浅い川を歩いて渡るのに、着物のすそを高くからげるのは用心しすぎだが、おぼれる心配はない。
出典:『東照宮御実紀附録』巻七(典拠として『岩淵夜話』を挙げる)
出典について城の受け取りでわざと厳重な態勢をとった理由を説明した家康の言葉として『東照宮御実紀附録』に載る。後世の編纂で、本人の言葉と確かめることはできない。
意味と背景
浅い川でも着物を高くまくって渡れば、少し大げさでも絶対におぼれない。家康は、物事の初めは用心しすぎるくらいがちょうどよいと考えていた。「石橋をたたいて渡る」に通じる、慎重な家康らしい言葉である。
座右の銘にするなら・面接での答え方
「初めての仕事は、大げさなくらい確認してから進めます。最初に手間をかけたほうが、結局は早く確実に終わると考えています」と、慎重さを強みとして語る時に使える。
何事も、終わりと始めが食い違わないのがよい。道理にかなっていれば、人はみな従うものだ。
出典:『東照宮御実紀附録』巻七(典拠として『寛元聞書』『武野燭談』を挙げる)。秀吉に、諸大名をどうまとめるかを問われての答え
出典について『東照宮御実紀附録』に載る。後世の編纂で、本人の言葉と確かめることはできない。
意味と背景
言うことが最初と最後で変わらず、筋が通っていれば、人は自然についてくる。人をまとめるのに力や策より一貫性と道理が大事だ、という考えを、天下人の秀吉に答えたと伝わる。リーダーの信頼の土台を言い当てた言葉である。
座右の銘にするなら・面接での答え方
「一度決めた方針は、理由なく変えないようにしています。変える時は必ず理由を説明します」と話すと、ぶれないリーダー像が伝わる。チームをまとめた経験と組み合わせるとよい。
鷹狩りは何よりの養生で、なまじっかな薬を飲むよりはるかによい。
出典:『東照宮御実紀附録』巻廿四
出典について『東照宮御実紀附録』に家康の言葉として載る(「〳〵」はくり返し記号で「なまなま」と読む)。後世の編纂で、本人の言葉と確かめることはできない。
意味と背景
家康は鷹狩りを好み、野山を歩き回ることが一番の健康法だと語ったと伝わる。家康は薬の調合にも詳しく、当時としては長い数え75歳まで生きた。体を動かすことを薬より重んじたこの言葉は、今の健康づくりにも通じる。
座右の銘にするなら・面接での答え方
「毎朝三十分歩くことを続けています。家康も、薬より体を動かすのが一番の養生だと言ったそうです」と、健康習慣と合わせて話せる。体力に自信があることを伝えたい面接にも使える。
困るほどにはしないが、勝手気ままもさせない。それが百姓たちへの慈悲である。
出典:『東照宮御実紀附録』巻廿四
出典について『東照宮御実紀附録』に家康の言葉として載る。後世の編纂で、本人の言葉と確かめることはできない。
意味と背景
甘やかしすぎても、締めつけすぎてもいけない。暮らしに困らない程度にしながら、わがままは許さないのが本当の思いやりだという、家康の治め方を表す言葉。家庭での子育てや職場での部下への接し方にも通じる考えである。
座右の銘にするなら・面接での答え方
「後輩には、困った時は必ず助けるけれど、決まりを破ったら必ず注意する、という線を決めています」と、優しさと厳しさのバランスを語る時に使える。
(どちらへ向かうのかと聞かれて)敵の方へ。
出典:板坂卜斎『慶長年間卜斎記』(関ヶ原の戦いの前、西軍出陣の知らせを受けて急に出陣した時)(1600年)
出典について家康の侍医だった板坂卜斎の記録『慶長年間卜斎記』に載る話として日本語版Wikiquoteにある。同時代に近い人の記録だが、原本の該当箇所はWikiquoteを通してしか確かめられなかった。
意味と背景
急な出陣で行き先を聞かれた家康が、ひと言「敵の方へ」と答えたと伝わる。細かい計画より、まず敵に向かって動くという決断の速さと覚悟が表れている。慎重な家康の、ここぞという時の思い切りのよさを示す逸話である。
座右の銘にするなら・面接での答え方
「迷った時は、課題のある方へまず一歩踏み出すようにしています」と、行動の速さを語る時の話のたねになる。短い言葉なので、自己紹介の最後にひと言添えるのにも向いている。
人の一生は、重い荷を背負って遠い道を行くようなものだ。急いではいけない。
出典:「東照宮御遺訓」(家康の遺訓とされる文)。江戸後期以降に広まった
本当の出どころ家康の遺訓として有名だが、偽作とされる(日本語版Wikiquote・Wikipedia)。江戸時代後期にはまず水戸の徳川光圀の言葉として広まり、天保6年(1835年)に家康の言葉として本に載ったことから家康の遺訓とされるようになった。明治11年(1878年)ごろ、元旗本の池田松之助が家康の署名と花押を入れたものを日光東照宮に奉納し、さらに広まったという。
意味と背景
人生は長く重い道のりだから、焦らず一歩ずつ進め、という教え。忍耐の人・家康のイメージにぴったりなので、家康の言葉として定着した。内容そのものは今も多くの人を励ましているが、本人が書いたものではないことは知っておきたい。
この言葉の使い方
使うなら「家康の遺訓として伝わる言葉ですが、実は後世の作とされています」と前置きするのが誠実。「焦らず、毎日少しずつ積み重ねる」という自分の姿勢と結びつければ、出典の事情も含めて好印象になる。
堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え。
出典:「東照宮御遺訓」の一節
本当の出どころ「人の一生は重荷を負うて」で始まる「東照宮御遺訓」の一節で、遺訓全体が家康の作ではないとされる(成立の事情は同じ)。
意味と背景
がまんすることが、平和に長く続くための土台であり、怒りは自分を滅ぼす敵だと思え、という教え。怒りにまかせた行動が失敗を招くことは、誰もが経験から知っている。遺訓の中でも特によく引用される一節である。
この言葉の使い方
「腹が立った時ほど一呼吸おくようにしています」と、感情のコントロールを語る時に使える。家康本人の言葉ではなく、家康の遺訓として伝わる言葉だと添えると、出典にも気を配る人だと分かる。
及ばざるは過ぎたるより勝れり。
出典:「東照宮御遺訓」の結びの一節
本当の出どころ「東照宮御遺訓」の結びの言葉で、遺訓全体が家康の作ではないとされる。『論語』の「過ぎたるは猶お及ばざるがごとし」(やり過ぎは足りないのと同じ)をさらに一歩進めて、「足りないほうがやり過ぎよりまし」と言い換えている。
意味と背景
何事もやり過ぎるより、少し足りないくらいのほうがよい、という意味。『論語』の「過ぎたるは猶お及ばざるがごとし」を下敷きにして、控えめさをさらに重んじた言い方になっている。食べすぎや言いすぎを戒める言葉としても使える。
この言葉の使い方
「腹八分目ならぬ、仕事も八分目で余力を残すことで、急なトラブルにも対応できるようにしています」と話せる。論語の言葉との違いを説明できると、教養のある答えになる。
人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
出典:「東照宮御遺訓」。家康の署名と花押入りのものは明治11年ごろ日光東照宮に奉納(1878年)
本当の出どころ徳川家康の遺訓として有名だが、家康の言葉ではないとされる。日本語版Wikipediaによれば、江戸時代後期に水戸藩主・徳川光圀の言葉として広まっていたものが、1835年(天保6年)の本で「東照御神君(家康)の教え」とされたことで家康の言葉という説が生まれた。明治11年(1878年)ごろ、元旗本の人物が家康の署名と花押を入れたものを日光東照宮に奉納している。
意味と背景
人生は重い荷物を背負って遠い道のりを歩くようなものだから、あせらず、一歩ずつ着実に進めという教え。続く「不自由を常と思えば不足なし」「堪忍は無事長久の基」などとともに、忍耐の大切さを説いている。
この言葉の使い方
座右の銘にするなら、長い目で努力を続ける心がけとして。面接では、すぐに結果が出なくてもあせらず、何年もかけて目標に近づいた経験を話すとよい。家康の作ではないとされる点を知っていると、歴史に詳しい面接官にも安心して話せる。
鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス
出典:松浦静山『甲子夜話』巻53(江戸時代後期)
本当の出どころ家康の性格を表す句として有名だが、家康本人が詠んだものではない。江戸時代後期の平戸藩主・松浦静山の随筆『甲子夜話』巻53に、作者の分からない句として三人の天下人のものが並べて載せられており、静山自身も「人が作ったものだろうが、それぞれの人柄によく合っている」と書いている。原文は「なかぬなら鳴まで待よ郭公」。
意味と背景
思いどおりにならない時も、あせらずに時が来るのを待つ。家康の忍耐強さを表した句で、長い戦乱を生き抜いて最後に天下を取った生き方をよく言い表している。急がず機が熟すのを待つことも、立派な戦い方の一つだと教えている。
この言葉の使い方
座右の銘にするなら、チャンスを待つ忍耐の心がけとして。面接では、すぐに結果が出ない場面でも準備を続け、機会が来た時に力を発揮できた経験を話すとよい。家康本人ではなく後世の人が作った句だと添えると正確。
人物の説明の参考:https://ja.wikipedia.org/wiki/徳川家康
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