肖像画:作者不詳(南北朝時代)『親鸞聖人像』(パブリックドメイン)(ファイルのページ)親鸞の名言
親鸞|1173〜1263年|日本(鎌倉時代)|僧侶(浄土真宗の開祖)
鎌倉時代の僧。9歳で出家し比叡山で20年修行したが、悟りを得られず山を下り、法然に出会って念仏の教えに帰依した。念仏禁止の弾圧で越後に流され、その後は関東で布教。妻をもち、僧でも俗人でもない立場で生きた。弟子の唯円がその言葉を書き留めた『歎異抄』で広く知られる。
のせている言葉:10こ(出典あり 9・伝承・出典未確認 1)更新:2026-10-20
この人の名言の一覧(10こ)
- 善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや。
- 親鸞は弟子一人ももたずそうろう。
- 親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申した…
- 念仏はまことに浄土に生まるるたねにてやはんべらん…
- わがこころのよくて殺さぬにはあらず。また害せじと…
- 弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親…
- 煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと皆…
- 念仏は行者のために非行非善なり。
- 踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまいりたく…
- 明日ありと思う心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは…
それぞれの名言に、出典(どの本・手紙・演説か)と、確かさのしるし(出典あり伝承・出典未確認実は言っていない)をつけています。外国語の言葉は運営者が原文から訳しました。
善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや。
出典:『歎異抄』第三条
出典について弟子の唯円が親鸞の言葉を書き留めた『歎異抄』に、親鸞の言葉として載る。ただし同じ考えは師の法然の言葉としても伝わっており(Wikiquoteにも注記あり)、親鸞が師の教えを受け継いで語ったものと考えられる。表記は現代かなに直した。
意味と背景
現代語訳:善人でさえ救われて浄土に生まれるのだから、まして悪人が救われないはずがない。ここでの「善人」は自分の力で善を積めると思う人、「悪人」は自分の力では救われないと自覚した人のこと。悪いことをしてよいという意味ではない。
座右の銘にするなら・面接での答え方
この言葉は誤解されやすいですが、私は「自分の弱さを認めた人ほど伸びる」と受け取っています。苦手を素直に認めて人に教えを請うようになってから、成績が上がりました。弱さを隠さない姿勢の原点です。
親鸞は弟子一人ももたずそうろう。
出典:『歎異抄』第六条
出典について『歎異抄』第六条に親鸞の言葉として載る。念仏の仲間の間で「自分の弟子だ、他人の弟子だ」という争いがあったことをたしなめた言葉。
意味と背景
現代語訳:私、親鸞には弟子など一人もいない。人を念仏に導くのは自分の力ではなく仏のはたらきなのだから、自分の弟子だと言い張るのはとんでもないことだ、という意味。教える立場でも偉ぶらない姿勢が表れている。
座右の銘にするなら・面接での答え方
後輩に仕事を教える時、つい「自分が育てた」と思いたくなります。でも本人の努力があってこそです。教える側が手柄を主張しない、という戒めとしてこの言葉を胸に置き、後輩の成果は後輩のものとして喜ぶようにしています。
親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したることいまだそうらわず。
出典:『歎異抄』第五条
出典について『歎異抄』第五条に親鸞の言葉として載る。
意味と背景
現代語訳:私は亡くなった父母の供養のために念仏を唱えたことは一度もない。親不孝の宣言ではなく、すべての生き物は生まれ変わりの中でいつか親兄弟だったのだから、自分の親だけのためではなく皆のために、という広い考えから出た言葉。
座右の銘にするなら・面接での答え方
ボランティアで地域の高齢者を訪ねた時、身内だけでなく誰かの家族を大切にすることも家族を大切にすることだと感じました。この言葉は、自分の身内だけで閉じない優しさを持とうと決めた時に出会いました。
念仏はまことに浄土に生まるるたねにてやはんべらん。また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもて存知せざるなり。
出典:『歎異抄』第二条
出典について『歎異抄』第二条に親鸞の言葉として載る。関東から命がけで京都まで教えを聞きに来た弟子たちに語った場面。
意味と背景
現代語訳:念仏が本当に浄土に生まれる種なのか、それとも地獄に落ちる行いなのか、私はまったく知らない。ただ師の法然を信じてついて行くだけだ、と続く。理屈で確かめられなくても、信じた人と道に自分をあずける覚悟を語っている。
座右の銘にするなら・面接での答え方
恩師に勧められた進路は、正直うまくいくか分かりませんでした。それでもこの人を信じると決めて進み、今の自分があります。損得の確証がなくても信じた道を進む覚悟として、この言葉を大切にしています。
わがこころのよくて殺さぬにはあらず。また害せじと思うとも、百人千人を殺すこともあるべし。
出典:『歎異抄』第十三条
出典について『歎異抄』第十三条に親鸞の言葉として載る。唯円に「人を千人殺してみよ」と問いかけた問答の中で語られる。
意味と背景
現代語訳:あなたが人を殺さないのは、心が善いからではない。そうなる縁がないだけで、害するまいと思っていても、めぐり合わせしだいで大勢を傷つけることもありうる。人の善悪は自分で思うほど自分の力で決まっていない、という厳しい人間観。
座右の銘にするなら・面接での答え方
ミスをした同僚を責めそうになった時、この言葉を思い出しました。自分がしないのは偶然条件がそろっていないだけかもしれません。人を裁く前に、仕組みや環境を見直すようにしています。
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。
出典:『歎異抄』後序
出典について『歎異抄』の後序に、親鸞がいつも語っていた言葉として唯円が記す。
意味と背景
現代語訳:阿弥陀仏が長い長い時間をかけて考えぬいた救いの願いをよく考えてみると、それはただ私一人のためのものだった。大勢のための教えを、自分一人に向けられたものとして受け止める、深い感謝の言葉。
座右の銘にするなら・面接での答え方
先生が全員に向けて話した言葉を、自分に向けられたものだと受け止めて行動したことで、成績が伸びた経験があります。どんな教えも自分事として受け取る、という姿勢の原点にこの言葉を置いています。
煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと皆もって空事たわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。
出典:『歎異抄』後序
出典について『歎異抄』後序に親鸞の言葉として載る。旧字・旧かなは読みやすく直した。
意味と背景
現代語訳:迷いだらけの人間と、燃える家のように不安定で移ろう世の中では、何もかもが空しい作り事で真実はない。ただ念仏だけが真実である。世の中の評価や流行に振り回されず、本当に頼れる一つのものを持てという言葉として読める。
座右の銘にするなら・面接での答え方
SNSの評価に一喜一憂していた時期に、この言葉に出会いました。移ろうものに振り回されず、自分が本当に信じられるものを一つ持とうと思い、毎日続けている練習をその軸にしています。
念仏は行者のために非行非善なり。
出典:『歎異抄』第八条
出典について『歎異抄』第八条に親鸞の言葉として載る。
意味と背景
現代語訳:念仏は、唱える者にとって修行でも善行でもない。自分の力で積み上げる手柄ではなく、仏の力によっておのずと出てくるものだから、という意味。自分の努力を誇る心をいましめる言葉でもある。
座右の銘にするなら・面接での答え方
ボランティアを「良いことをしている」と誇る気持ちが出た時、この言葉で我に返りました。良い行いを自分の手柄にしないことで、相手と対等に関われるようになったと感じています。
踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまいりたくそうらわんには、煩悩のなきやらんと、あやしくそうらいなまし。
出典:『歎異抄』第九条
出典について『歎異抄』第九条。唯円が「念仏しても躍り上がるような喜びが湧かない」と打ち明けた時、親鸞が「私も同じだ」と答えた問答の中の言葉。
意味と背景
現代語訳:もし躍り上がるほどうれしく、すぐにでも浄土へ行きたいと思えるなら、かえって自分には煩悩がないのかと怪しく思うだろう。喜べない自分を責める弟子に、それこそ人間らしさで、そんな人のための救いだと寄り添った言葉。
座右の銘にするなら・面接での答え方
目標を達成しても素直に喜べない自分を責めていた時、この問答を知りました。師匠でさえ「自分も同じだ」と言える正直さに救われ、後輩の弱音にもまず「自分もそうだよ」と返すようにしています。
明日ありと思う心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは。
出典:『親鸞聖人絵詞伝』(江戸時代の伝記)に出家時の歌として伝わる(1181年)
出典について9歳の親鸞が、出家の儀式を明日にしようと言われた時に詠んだ歌として伝わる。Wikipediaも伝説として扱っている。この歌が出てくるのは江戸時代の伝記で、親鸞自身の著作や同時代の記録には見えない。
意味と背景
現代語訳:明日も咲いているだろうと思っている桜も、夜中に嵐が吹けば散ってしまうかもしれない。今日できることを明日に延ばすな、という戒めとして今もよく使われる。
座右の銘にするなら・面接での答え方
「明日やればいい」が口癖でしたが、この歌を知ってからは、思い立った用事はその日のうちに少しでも手をつけるようにしています。提出物を前倒しで出す習慣がつき、急な予定変更にも慌てなくなりました。
人物の説明の参考:https://ja.wikipedia.org/wiki/親鸞
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